SURRENDER

~幻想から本当の自分に持ちかえて形にする~

POEM 硝子

韓国のバラエティー番組を見ていたら、日本の詩人の話がされていた。

日本人なら誰でも知っている詩人、金子みすゞ


日本にいるとリアルタイムでは見られないけれど、毎週楽しみにしているドキュメンタリーで、

韓国でも人気の番組で、私の友人たちも皆これが好きだと言っている。


とてもリラックスできる番組の中で、


彼女の詩集を出して読みはじめる。

 

硝子

思い出すのは雪の日に
落ちて砕けた窓硝子

あとで、あとでと思ってて
ひろわなかった窓がらす

びっこの犬をみるたびに…
もしやあの日の窓下を
とおりゃせぬかと思っては

忘れられない、雪の日の
雪にひかった窓がらす


유리         가네코 미스즈

생각나는 건 눈 오는 날
떨어져서 부서진 창유리

다음에, 다음에 하고 생각하다가
줍지 않은 창유리

절름발이 개를 볼 때마다
혹시나 그날 창 밑을
지나가지나 않았을까 생각하고는

잊을 수 없어, 눈오는 날
눈 속에 반짝이던 창유리


彼女の詩集は、正直、教科書に載っていたものしか覚えていない。

小学生の頃に興味があって図書室で読んだことはあるけれど、

子供心には理解できなくて分からなかった記憶がある。


そして私は傷つきやすい感性で生きていたからか、

こういう詩や文学は、寂しくて悲しくて怖いと思って近づきがたかった。


それを韓国でお気に入りの詩を紹介するまで親しんでいる人がいるということに

意外性と刺激を受けた気がした。


そして、どの言語で書かれていても、

その奥で湧いてきた、伝えたい感性や人の心というのは共通して響くものなんだなと、

言葉が伝えられる可能性について、新たな認識をもてた気もした。

 

この詩がお気に入りの彼女は、

「こういう考えをみんなするよね?

もしかして自分のせいで、自分がしなかったせいで、自分が躊躇したせいで、誰かが傷ついてないかって。」

と自分の感覚をシェアしていた。


そこまで自分の考えに落とし込んで親しんでいる場面に感心しながら、

いつのまにか私も自分の考えに浸っていた。

 

https://www.instagram.com/p/BiSE097FKdP/

#すずらん

 

硝子という詩が伝えているのは、

自分の視点から、客観的に周りにも視点が移って気づいた事実のこと。

 

私も今そんなタイミングに来ていたからの考え事。

 

自分がこれまでしてきた無意識にばら撒いていたガラス破片。

それは、それしか方法が分からなくてむやみに発したもの、

誰かがきっかけで耐えきれなくて受けたそのままの衝撃、

次々やってきた衝撃に立ち直る勇気がもてなくなったもろさ、

誰かのガラス破片を踏んでしまって痛み続ける足に未来まで悲しみに染めたり、

その痛みのせいで人を責める生き方をして、

自分の足元に広がるガラス破片にも気づかずに、さらなる破片を増やしていった。

そんな生き方を、私は子供のまましてきたんだなと振り返っていた。


傷ついていたのは私だけじゃなかった、周りをそのせいで傷つけていたのかもしれない、

自分のことしか見えていなかった過去。

どれだけの人に迷惑をかけたんだろう。

自分が苦しくて人ばかり責めていたし、ここにある幸せも見えなくなって、

幸せがどこにも見つけられなくて、もう無いものだと思って生きてきていた。

ただ自分が受け取れなかっただけかもと、これまでの人生を振り返ってみると、

どんな可能性を知らないうちに不意にしてきたんだろう、

どんな愛情や好意を無視してきたんだろう、

楽しい思い出を寂しさに染めてきてしまったんだろうか、

繋がれる関係性を孤独で打ち消してしまったんだろうか。


人が撒いたガラスの破片を踏んで刺さったままだったこともあるはず。

どれだけ長い時間、人の悲しみを自分の悲しみとして生きてきたんだろうか、

自分の苦しみから解放されたいだけに人生をかけてきて、

人生が暗いと思い込んでいただけじゃないか。


そして周りの人がときどき苦しくなったのは、私のせいもあったかもしれないと思うと、

この割れた窓ガラスはもう片づけようと思い始める。

誰かに苦しみの中にいるのを気づいてもらう必要もないし、

その苦しみから救い出してもらう必要もないし、

そんな過去のことで誰かを傷つけることは止めたいし、

誰かの苦しみのせいで自分を傷つける必要もないから。

そして躊躇したり、気だるく生きて受け取ることをしていないことで

自分でも気づかないうちに、人をもしかして傷つけたかもしれない。

特にそばにいてくれた人たちに、心から謝りたくなる。

私は子供だった、ごめんね。

 

きっと私はここを卒業できてきた。

許せなかった過去、人、そして自分を、解放して受け入れられる視点になった。


さっそく自分の足から破片を取り除いて、

私のそのままにしていた割れた窓ガラスを片付け終わったら、

自分のルーツも、認めてこなかった過去の幸せだった事実も、

ただ人の間違ってしまった行いに傷ついてただけだったことも、

思い込んでいた自分の制限から作り出した悲しみの幻想も、

ぜんぶ受け入れて認められてきた。


そして、こんなガラス破片に気をとられなくなったら、

私は本当はどうしたいんだろう?

どこに行って何を生きたいんだろう?

それがやっと考え始められる。

フリーでヘルシーで正直な自分から人生を考えられるタイミングにある。

 

もう自分勝手にならない人生を描けるフェーズに入れた気がする。

一つの詩でここまで自分を振り返ってみれるんだなあって不思議な気分になった。


でも誰でも持っているはずの傷。

人から受けたり、与えてたり、自分で傷ついたり。

それは誰かのせいで割れたガラスかもしれないし、

それを自分で片づける気にもなれず不満をもったままでいたり、

片づける方法も、破片を取り除く方法も分からないかもしれない。


私は分からなかった間にしてしまっていたことは、支配だった。

意志が明確なぶん、周りを支配してしまうことになっていた自分にも気づいたし、

周りを責めていたけれど許すことで自分も囚われなくなることも学んだし、

本当はその問題自体、自分が人生で望んでいることではなく、

それを越えた先にあることも気づいたし、

傷つけあっているようで、影響を与え合う性質は、繋がり合うことができるということでもあると知った。

傷つくのは、その奥に自分の純粋な望みがあるから。そういう場合でしか傷つくこともできないし。

それに気づけない間は苦しく感じるけれど、自分の心の声に従ってみんな生きているんだと分かった。


もし、こんな考えに浸ったときは、悔いすぎたり、心配しすぎなくていいと思う。

影響を与え合って、助け合って生きてきたってことだから。

でも止めたくなったらサラッとそこから抜け出して、

もっと自由でオープンな繋がり方をして生きることもできるよね。

本当はどう生きたいか考える視点に。